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徹底解明! 金印「漢委奴国王」とは

古代中国の皇帝から贈られた、輝く「王の証」の謎

金印公園にある金印のモニュメント

■中国でも稀にしか見つからない金印が志賀島で出土したのは何故なのか

 金印そのものは中国本土でさえ発見されることは稀(まれ)であり、漢委奴国王金印は中国考古学上においても貴重な文物である。そのような金印が、遺跡もない志賀島から出土したのはなぜか。

 金印の出土地については明治45年(1912)のころ、九州帝国大学医学部教授の中山平次郎(なかやまへいじろう)が「志賀島南面の小谷にして、傾斜地の海岸で今は段畑となっている。幅広き下方でも約半町ほどの狭い谷である」と推定した。現在、金印碑のある付近である。また出土状態から墳墓にあったのではなく、倭国大乱で邪馬台国の軍兵が奴国に侵入したさい、「隠蔽(いんぺい)」したのではないかと考えた。

 金印は奴国の王に賜与(しよ)されたものだ。印綬(いんじゅ)はほんらい副葬されたのではなく奴国の王宮にあったものかもしれない。あるいは墳墓に副葬されたものが、二次的に志賀島に移動したのであろうか。

 奴国の範囲は遺跡の分布状況、土器の地域性や地理的条件によって、須玖(すぐ)岡本遺跡群と比恵(ひえ)・那珂(なか)遺跡群を中心とした福岡平野の那珂川・御笠(みかさ)川流域、室見(むろみ)川流域、博多湾一帯であることがわかってきた。王の墓もこの一帯にあるはずだ。

 倭の奴国王の後、倭国王卑弥呼にも、印綬が授けられたと魏志倭人伝にある。

 漢代の境域は東西9302里、南北13368里で、方万里の天下観念に相応する領域を有していた(『漢書』地理志)。

 倭は東夷にあって、天子の徳を慕う朝貢(ちょうこう)国( 慕化来朝(ぼからいちょう))であった(西嶋定生『邪馬台国と奴国』吉川弘文館)。「礼」のある国として外臣、すなわち漢・魏の天下の版図にくみこまれたのだ。

 倭と漢・魏の朝貢関係の特色は「生口(せいこう)」(生きた人間)の献上と、それに対する銅鏡の賜与である。倭は漢安(あん)帝2年(107)に生口160人を献上していらい、魏の景初(けいしょ)3年(239)、正始(せいし)4年(243)、正始9年(248)に生口を献じている。生口は織物などとともに物として贈られている。烏桓が漢建武2年(49)に光武帝へ「奴婢(ぬひ)」を献上した記録があるが、四夷の諸国のなかで、人間を贈り続けたのは倭だけであった。朝貢と印綬の授受の関係は、双方の国の政治的利害関係の一致が見てとれる。

 

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東 潮

あずま うしお

1946年生まれ。徳島大学名誉教授。文学博士(九州大学)。専攻は東アジア考古学。奈良県橿原考古学研究所を経て現職。志賀島の金印発見現場や中国・朝鮮半島の遺跡など、数多くの実地調査を行う。『魏志東夷伝が語る世界 邪馬台国の考古学』(角川選書)ほか著書多数。

 


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